空手道の稽古は、全身をつかいます。
突きや蹴りも手先、足先だけでは技の体をなさず、全身の力をつかいきって初めて速度と威力を発揮することができます。
自分の身体を指先からつま先まで統御できないと、満足に突くことも、蹴ることもできないともいえます。
「基本、組手、形」という3つの「課題」をまんべんなく学ぶのは、自分の身体能力を自覚し、よりよく開発してゆくためでもあります。
自分を知ることは、稽古のみならず、あらゆることに通じる学びの必須前提です。
稽古はおのずと、自らを成長させる「機会」となります。
その意味でも空手道は、体力や能力、性別、年齢にかかわりなく、だれにでも門戸を開いています。
空手道をはじめることは、日々の生活に武道をとり込むことを意味します。
道場ではじめに教わることは礼です。礼によって稽古ははじまり、礼によって終わります。
稽古と礼節は一体です。礼は、師匠やともに学ぶ仲間への敬意でもあり、一期一会の学びの時間をその都度意識する一種の「節目」です。「礼節」ともいう所以です。
つまり稽古をはじめるのは、生活に「節」をつくることでもあるのです。
竹をイメージしてください。
積雪をはじき返すしなやかな強さは、あの節によってもたらされています。
空手道をはじめると、当然、これまでの日常に稽古の時間が加わります。かぎられた稽古の時間は、日常と仕切られた非日常ではなく、自己の可能性を伸ばし、仕事や学業を活かすための「節」だと思ってください。
高度化した情報社会では、だれしもが自分の根をさがしあぐね、さまざまな圧力にさらされ、圧迫されながら生きています。ときに押しつぶされそうになることもあるでしょう。
節を持つことで人生は、かんたんには折れにくいものとなる。
そうわたしたちは信じています。